10円握って一直線。くじ、文房具、ゲーム機まであった“子どもの社交場”
子どもの頃、近所に駄菓子屋あった?
学校から帰ってランドセルを置く。
10円、20円を握りしめて、また外へ飛び出す。
糸引き飴。
ヨーグル。
串に刺さったカステラ。
すずめの卵。
ホームランバー。
ガム。
くじ引き。
でも、大分県民の駄菓子屋の記憶をたどってみると、売っていたのはお菓子だけではありません。
文房具。
ビー玉。
銀玉鉄砲。
プラモデル。
花火。
さらに店の横や奥には、10円ゲームやテーブル型のテレビゲーム。
友達と待ち合わせたわけでもないのに、行けば誰かがおる。
今回見えてきたのは、駄菓子屋が単なる「安いお菓子を売る店」ではなく、子どもだけで行ける、小さな世界の中心だったことです。
1)駄菓子屋は、大分県内のかなり広い地域にあった

今回の声では、大分市、別府、臼杵、津久見、竹田、中津、佐伯、日田、国東、豊後高田、由布院など、県内のいろんな地域から「近くにあった」という記憶が出てきました。
昭和30年代・40年代の話もあれば、昭和50年代、80年代に小学生だった人の記憶もあります。
中には、
「校区内に5軒くらいあった」
「小学校の周りだけで4軒、行ける範囲なら6軒くらいあった」
という声まで。
田舎の地区でも、今ではスーパーさえなくなった場所に、昔は駄菓子を買える店が何軒もあったという話があります。
今の感覚だと驚きますが、子どもの数が多かった時代には、それだけ子ども向けの小さな店が成り立っていたんやね。
2)学校・公園・神社の近く――子どもの動線上に店があった

駄菓子屋の場所にも共通点があります。
小学校の正門前。
中学校のそば。
公園の入口。
神社の近く。
通学路沿い。
子どもが毎日通るところに、自然と店がありました。
大分市稙田方面では、小学校から帰って徒歩数分の駄菓子屋へ。
下郡では神社の斜め前。
日田では、歩いて行ける範囲の店にゲーム機まで並んでいました。
変わったところでは、山沿いの薄暗い通学路にあった大きな防空壕の中に、平屋の駄菓子屋があったという記憶も。
ガチャガチャや、くじ付きの風船ガムを買いに行ったそうです。
その場所は後に道路拡張で、防空壕ごと姿を消したとのこと。
駄菓子屋の記憶は、昔の町並みの記憶ともつながっちょるんよね。
3)帰宅したら、10円・20円を握って一直線

昔の駄菓子屋の話で、何度も出てくるのが、
「小遣いを握りしめて走って行った」
という光景です。
学校にはお金を持って行けない。
だから一度家へ帰る。
ランドセルを置く。
そして、その日の小遣いを持って駄菓子屋へ一直線。
豊後高田では、学校からの金銭持参は禁止だったため、帰宅するとすぐにお小遣いを握って店へ走ったという記憶があります。
国東では、保育園から帰ると10円を持って毎日のように通ったという人も。
店まで徒歩3分。
走れば1分。
それくらいの距離に、子どもだけで買い物ができる場所があった。
今思えば、あれは子どもにとって最初の「自分だけの買い物」だったのかもしれません。
4)5円、10円で真剣に悩んだ“小さな買い物”

駄菓子屋で印象的なのは、金額の小ささです。
当時の記憶として、
「一日の小遣いは10円」
「くじが5円」
「ガムも5円」
「ホームランバーが10円」
「チロルチョコが3つで10円だった」
などの声がありました。
中には、
5円でくじやビー玉を買い、残った5円は豚の貯金箱へ。
あるいは、5円のくじを引いて、残りで「すずめの卵」を買う。
今なら数十円の差をあまり気にしない買い物でも、子どもにとって10円は有限の予算です。
お菓子に使うか。
くじに賭けるか。
残すか。
たった10円の中で、しんけん考えよったんよね。
5)糸引き飴、ヨーグル、すずめの卵……駄菓子の記憶

コメントからは、懐かしい名前が次々に出てきました。
糸引き飴。
練り飴。
ストローゼリー。
ヨーグル。
きなこ系のお菓子。
すずめの卵。
ニッキ飴。
バターボール。
粉末ジュース。
串に刺さったカステラ。
箱に入った丸いガム。
5円ガム。
アイス。
瓶に入ったイカを覚えている人もいます。
そして、四角い箱に入ったフルーツガム。
大人になって商品名を忘れても、
「丸くて平べったくて、砂糖がザラザラついちょった」
「木の小さいスプーンですくって食べるやつ」
みたいに、形や食べ方だけは鮮明に残っている。
味覚の記憶って、しんけん強いんよね。
6)くじ引きは、子どもにとって一大勝負だった

駄菓子屋といえば、くじ引きも外せません。
紐を引っ張る飴のくじ。
甘納豆のくじ。
カステラのくじ。
スーパーボール。
小さな銃。
プロマイド。
そして、仮面ライダーカード。
豊後高田では、ラッキーカードが出ると専用アルバムがもらえ、友達の間で一気にヒーローになれたという記憶もありました。
西大分では、ウルトラマンの5円引きブロマイドにはまったという人も。
たった数円、数十円。
でも子どもには、
「今日は当たるかもしれん」
という一大イベントです。
お菓子を確実に買うか、くじに賭けるか。
この選択もしんけん悩ましかったんやろうね。
7)駄菓子だけじゃない。文房具・おもちゃ・プラモデルまで

今回かなり多かったのが、
「純粋な駄菓子屋ではなかった」
という話です。
文房具屋に駄菓子が置いてある。
食料品店の一角に駄菓子がある。
お茶屋の入口だけ駄菓子屋になっている。
お米屋さんの隣。
餅やまんじゅうを作る店にも、駄菓子やくじがある。
文房具だけでなく、
竹ひご。
ビー玉。
コマ。
銀玉鉄砲。
模型。
理科の工作キット。
まで揃っていた店もあります。
佐伯市弥生の文房具兼駄菓子屋では、木製戦艦模型、飛行機のプラモデル、モーターの組み立てキットまで並んでいたという記憶がありました。
その人にとって店は、
「興味の宝庫」
だったそうです。
今でいう、お菓子屋・文房具店・玩具店・ホビーショップが一つになったような場所だったんやね。
8)ゲーム機が置かれた駄菓子屋は、さらに強かった

昭和後半になると、駄菓子屋の記憶にゲーム機が入ってきます。
テーブル型のテレビゲーム。
10円ゲーム。
パックマン。
ペンゴ。
ドンキーコング。
学校の周りにあった複数の駄菓子屋を、ゲーム機目当てにハシゴしていたという人もいました。
大分市長浜では、50円玉を積み上げてゲームをし、休みの日は朝から並ぶ。
お昼になると、リアルゴールドと焼きそばUFOを頼み、店で作ってもらったという思い出まであります。
中学校近くの店では、土曜日の部活前にカップ麺を食べる。
駄菓子屋はもう、
お菓子を買うだけの場所ではなく、放課後の娯楽施設
になっていたんよね。
9)怖いじいちゃん、優しいばあちゃん――店の人まで覚えている

駄菓子屋の思い出を聞くと、不思議なくらい店主の記憶が出てきます。
「怖そうなおじいさんだった」
「買わんなら帰れ、と怒られた」
という店もあれば、
「おかえり、と迎えてくれるおばちゃん」
「おつかいでお茶を買うと、駄菓子まで一緒に包んでくれたおばあちゃん」
という店もあります。
由布院では、近所にあった二軒とも、おばあちゃんが店を切り盛りしていたという記憶も。
別府では、最近まで営業していた店のおばちゃんと仲良しだったという人もいました。
店名は忘れても、
怖かった顔。
声。
笑い方。
「おかえり」の一言。
は覚えている。
駄菓子屋って、商品だけじゃなく、店のおじちゃん・おばちゃんまで含めて一つの場所だったんやと思います。
10)駄菓子屋は、子どもたちの“社交場”だった

今回の記事で一番大事なのは、たぶんここです。
駄菓子屋は、子ども同士が集まる場所でした。
大分市上野では、土日になると近所の子どもが集まり、狭い土間が「社交場」のようになっていたという記憶があります。
別の人は、駄菓子屋でビー玉やコマを買って近くの神社へ。
誰かと約束したわけではない。
でも行ってみると、いつも友達がおる。
公園の入口に駄菓子屋があれば、
駄菓子を買う。
公園へ行く。
友達と遊ぶ。
また店へ戻る。
そんな一日になります。
スマホもSNSもない時代。
「今日どこに集まる?」と連絡せんでも、
駄菓子屋へ行けば、だいたい誰かがおった。
11)田舎では「駄菓子屋」ではなく、“何でも屋”だったことも

地域によっては、そもそも「駄菓子屋」という専門店がありませんでした。
酒屋にお菓子やアイスが置いてある。
食料品店に駄菓子がある。
タバコ、野菜、豆腐、アイスまで扱う何でも屋。
そんな店です。
臼杵では、家族が経営する何でも屋で、駄菓子も売っていたという記憶がありました。
子どもからは、
「いつでも好きに食べられてええなぁ」
と言われる。
でも実際には、
「商品やけん勝手に食べるな」
と親から厳しく言われていたそうです。
田舎では、生活に必要なものも子どものお菓子も、同じ小さな店に並んでいたんやね。
12)「じいちゃんげ」「ばあちゃんげ」――正式な店名を知らない店もある

おもしろかったのが、店の呼び方です。
大分市上野では、
「じいちゃんげ」
「はぁちゃんげ」
と呼んでいた店があったそうです。
「げ」は「家」。
つまり、
「じいちゃんの家」「ばあちゃんの家」
くらいの感覚で呼ばれていたわけです。
国東では、お茶屋だったので、子どもたちは単に「お茶屋」と呼んでいて、今となっては正式な店名を思い出せないという人もいました。
別の地域でも、
「ミー屋やったかな?」
「山下やったっけ?」
と名前が曖昧な店があります。
でも、場所や店のおばちゃん、お菓子の棚は覚えている。
店名よりも、子どもの生活の中で何と呼ばれていたかの方が大事だったんやろうね。
13)大分県内に残る、店名の記憶

一方で、今でも店名まではっきり覚えている人もいます。
竹田の内川商店。
佐伯市弥生のミヤワキ。
大分市下郡の柴田商店。
臼杵の「ゲジゲジ屋」や松屋。
戸次の「とおやま」。
住吉小学校前の「だるまや」。
西大分東八幡の内藤。
そのほか、津久見では十川、第一文具、ミュークラブなどの名前も挙がりました。
ただし今回挙がった名前は、県内にあった店のほんの一部です。
同じ市内でも、
「あそこにあった」
「こっちにもあった」
という記憶が次々と出ています。
それぞれの校区に、それぞれの**“うちの駄菓子屋”**があったんやろうね。
14)いつの間にかシャッターが閉まり、店が消えていった

駄菓子屋の話には、少し寂しい終わり方も多くあります。
中学生、高校生になると、いつの間にか行かなくなる。
社会人になって、久しぶりに店の前を通る。
するとシャッターが閉まっていた。
建物そのものがなくなっていた。
道路拡張で店のあった場所ごと消えた。
「今はどちらもなくなった」
という声がいくつもありました。
子どもが店を卒業したのか。
それとも店の方が先になくなったのか。
その境目は案外覚えていません。
気づいた時にはもう、
あの頃の駄菓子屋には戻れなくなっていた。
15)でも、駄菓子文化そのものが消えたわけではない

昔ながらの個人店は減りましたが、駄菓子そのものがなくなったわけではありません。
豊後高田では、「昭和の町」の商店街で駄菓子に出会えるという声も。
日田では、なぜかガソリンスタンドの中に駄菓子を扱う場所があるという話もありました。
大型商業施設の中にも、昔風の駄菓子を並べた店があります。
ただ、50年前を知る人からは、
「今のショッピングモールにある駄菓子屋とは、少し商品が違う気がする」
という声も。
同じ駄菓子でも、
店の狭さや匂い、瓶、おばちゃん、ゲーム機、土間まで含めて“駄菓子屋”だった
のかもしれません。
16)結局、駄菓子屋で何を買いよった?

今回出てきたものをざっくり並べると、
- 糸引き飴
- 練り飴
- いちご飴
- ストローゼリー
- ヨーグル
- 串カステラ
- すずめの卵
- ニッキ飴
- ガム
- チロルチョコ
- ホームランバー
- 粉末ジュース
- イカのお菓子
- ベビーラーメン
- プロマイド
- 仮面ライダーカード
- ビー玉
- コマ
- 銀玉鉄砲
- スーパーボール
- プラモデル
- 花火
など、本当にいろいろ。
「駄菓子屋」という名前から想像するより、ずっと広い品ぞろえです。
そこにゲーム機まで加わる。
子どもにとっては、数坪ほどの小さな店が、しんけん大きな世界に見えていたんやろうね。
まとめ――覚えているのは、お菓子だけではない

駄菓子屋の話を聞いていると、最初はみんな、
「あのお菓子買いよった」
「10円持って行きよった」
という話をします。
でも、少しずつ記憶をたどると出てくるのは、お菓子以外のものです。
学校から走った道。
公園。
神社。
狭い土間。
ゲーム機の音。
友達。
怖かったじいちゃん。
「おかえり」と言ってくれたおばちゃん。
そして、シャッターが閉まった時の寂しさ。
駄菓子屋は、大人が用意した遊び場ではありませんでした。
子どもが自分のお金を持ち、自分で選び、自分で友達と集まれる場所。
だから何十年たっても、
「近所の駄菓子屋、あったなぁ」
の一言から、放課後の風景が丸ごと戻ってくるんやと思います。
たった10円を握って走った先には、今思うよりずっと大きな世界があったんやね。
※この記事は、SNSで行った「子どもの頃、近所に駄菓子屋あった?」という呼びかけに寄せられた声をもとに整理したものです。
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