庭・実家・親戚・近所…“どこからともなく来る”大分のかぼす事情

大分県といえば、やっぱり かぼす。
でも実際のところ、大分県民にとってかぼすは
スーパーで買うもの なんやろうか。
それとも、誰かからもらうもの なんやろうか。
今回「みんなの家では、かぼすは買うもの? もらうもの?」と聞いてみたら、
思った以上に多かったのが、
- 実家にある
- 庭になる
- 親戚から来る
- 近所から回ってくる
- 必要な分だけ収穫する
という声でした。
つまり大分では、かぼすは
“買う前に、どこかからやって来るもの”
として存在しているらしい。
この独特の距離感が、今回の実態調査でかなりはっきり見えてきました。
1)結論から言うと、「もらうもの」感覚がかなり強い

まず今回のコメントをざっくり見て、一番はっきりしていたのはこれです。
大分県民にとって、かぼすは“買うもの”より“もらうもの”という感覚がかなり強い。
たとえば、
- 「かぼすは貰う物だと思っています」
- 「買った事ない」
- 「購入した事ないかも」
- 「誰かしかくれる」
- 「ただで貰えるものと思ってる」
- 「買うより貰う率が高い」
という声がかなり多く出てきました。
もちろん全員ではないけど、
少なくとも今回の印象では
“わざわざ買いに行く果実”というより、気づけば家にある果実
という立ち位置にかなり近そうです。
2)一番多いルートは「実家」「庭」「親戚」

では、もらうとしたら、どこから来るのか。
これもかなりはっきりしていました。
多かったのは、
- 実家の庭
- 自宅の庭
- 祖父母の家
- 夫の実家
- 親戚の家
という、家族・親族ルートです。
たとえば、
- 「子供の頃から実家にあります」
- 「夫の実家の庭に成っているので頂きます」
- 「ばあちゃん家は庭に2本植わっちょった」
- 「庭にあるけどご近所さんからも友人からもいただきます」
- 「娘の小学校入学記念に庭に木を植えました」
という声があり、
大分ではかぼすが「商品である前に“家でなるもの」として存在していることが分かります。
3)近所・知り合い・会社…“回ってくる”文化もある

家族ルートだけではなく、
近所や知り合いから回ってくる という感覚もかなり強かったです。
- 「ご近所の方が沢山持って来てくれます」
- 「知り合いから少し分けていただく」
- 「教室のみんなで頂いたり」
- 「会社に大量に持ってきて、勝手に持って帰るもの」
- 「今年はもらいださんねぇーとか言いながら待つ」
ここがかなり面白いところで、
かぼすは単に“配るための果物”というより、
旬になると自然に流通する近所文化の一部 なんよね。
しかも「こちらからちょうだいとは言えんけど、待ってる」という声まであって、
このへんに大分らしい遠慮と期待の混ざった距離感も見えます。
4)「収穫するもの」という感覚もある

買う・もらう、だけじゃなくて、
自分で取りに行くもの という声も目立ちました。
- 「収穫しますね」
- 「庭にあるけど必要な分だけ採ってる」
- 「裏の山から取ってくるよ」
- 「実ったら取り放題」
- 「帰省した時は収穫してました」
この感覚は、かなり大分っぽいです。
かぼすがスーパーの商品というより、
木から取るもの として生活の近くにある。
しかもその「収穫する場所」も、庭や畑だけではありません。
親の自営業の駐車場の敷地から収穫する という声もあり、かぼすは“農園の果実”というより、家の生活圏に普通にある木の実として存在していることが分かります。
だからこそ「買うもの?」と聞かれても、
「いや、取るものやろ」
と感じる人が少なくないんやと思います。
5)もちろん「買う派」もいる。でも買い方に特徴がある

一方で、ちゃんと買う人もいる ことも見えてきました。
たとえば、
- 「普通に買う」
- 「たまに買います」
- 「果汁100%のを買う」
- 「瓶のかぼすを常備」
- 「県外では探して買ってる」
- 「Amazonやカルディで買って常備してる」
などです。
ただ面白いのは、買う場合でも
- 生の果実より果汁を買う
- 県外に送る時だけ買う
- 旬を逃した時だけ買う
- 県外に出てから買うようになった
というように、
“かぼすを生活に入れるために仕方なく買う” 感じもあることです。
さらに、買う場合でも使い分けがあるようです。
贈答用となると、皮に傷がなく、大きさがそろった見た目のよいものを選んで買う。
でも家庭用なら、そこまで気にせず、もらい物や庭の実で十分という感覚も強いようでした。
つまり買う派もいるけど、
大分県内ではなおさら
常に買う前提ではない のが特徴やね。
6)県外に出て初めて「買うしかない」に変わる

今回かなり印象的だったのが、
県外に出てから、かぼすの立場が変わる という話です。
- 滋賀では探して買う
- 愛知ではAmazonやカルディで買って常備
- 単価が高くて買う気にならない
- 出回り期間が短くて使わなくなった
- 大分を離れて初めて恋しくなった
つまり大分にいる間は、
かぼすは「ある」「来る」「取る」「もらう」だったのに、
県外では急に「探す」「買う」「切らさないようにする」に変わる。
実家にいる間は、近所や親戚の農家からもらってきていたので、
そもそも**「買う」という感覚がなかった**、という声もありました。
ところが大人になって県外に出ると、
今度は 「どこにも売ってない」「探して買うしかない」 に変わる。
この落差があるからこそ、
大分では“買うもの感”が薄い のかもしれません。
大分にいる時の“当たり前”が、外に出て初めて特別やったと分かるんよね。
7)でも全員が“もらって嬉しい”わけでもない

ここもリアルでした。
かぼすはもらうもの、という感覚が強い一方で、
- 「貰っても困る」
- 「持て余す」
- 「シオシオになるまでがセット」
- 「使い切れずに処分することもある」
- 「あまり使わないし、貰っても困るけど…」
という声もかなりありました。
つまり、大分県民は全員が
“かぼす大歓迎!” ではないんよね。
ただそれでも、もらう文化があるからこそ、
好きかどうかとは別に
かぼすが家に入ってくる。
この強制力みたいなものも、今回の実態として面白かったです。
8)大分県民にとってかぼすは、“野菜室の果物”というより“人間関係の果物”

今回のコメントを見ていて思ったのは、
かぼすは単なる柑橘ではなく、人とのつながりでやってくる果物やなということでした。
- 実家からもらう
- 親戚から来る
- 近所が持ってくる
- 会社で配られる
- 庭で採る
- 誰かが余ったのを分けてくれる
こういう流れを見ていると、
大分のかぼすは
農産物であると同時に、人間関係の流通物でもある。
だから、かぼすの話をしているのに、
どこか「ご近所文化」や「おすそ分け文化」の話にもなってくるんよね。
9)結局、大分県民にとってかぼすは買うもの? もらうもの?

今回の実態調査をざっくりまとめると、こうです。
もらうもの派
- 実家や庭にある
- 親戚から来る
- 近所からもらう
- 旬になると誰かが持ってくる
- 自分で収穫する
買うもの派
- たまに買う
- 生果より瓶や果汁を買う
- 贈り物用に買う
- 県外では買うしかない
持て余す派
- 貰うけど使い切れない
- シオシオになる
- 持て余すけど、なぜか毎年来る
つまり、大分県民にとってかぼすは、
基本的には“もらうもの・取るもの”寄り。
でも、状況によっては買う。
そんな答えが一番しっくりきます。
まとめ

今回の「かぼす実態調査②」で見えてきたのは、
- 大分県民にとってかぼすは“買うもの”より“もらうもの”感覚が強い
- 実家・庭・祖父母・親戚ルートがかなり強い
- 近所や知り合いから回ってくる文化もある
- 自分で収穫する人も多い
- もちろん買う人もいるが、毎回買う前提ではない
- 県外に出ると初めて“買うもの”になる
- でも、もらっても困る人もちゃんといる
ということでした。
つまり、大分県民にとってかぼすは、
スーパーで選ぶ前に、
どこかから自然にやってくるもの。
そしてそれは、果物というより
大分の人間関係の中で回ってくる季節もの
なのかもしれません。
※この記事は、SNSで集まった「かぼすは買うものか、もらうものか」に関する声をもとに整理したものです。
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